ささいなささいなちょっとだけ恩返しができた日 | いとうのL.P.

ささいなささいなちょっとだけ恩返しができた日

 ウチの嫁さんは、仕事を持っている。もう勤続うん十うん年のベテランだ。

結婚したのは彼女が就職したその年の年末のことだった。そしてすぐに妊娠した。

つわりは重かった。通勤の満員電車の中で、何度も気分が悪くなってその都度途中下車して、ホームのベンチに座っていたらしい。月数が増えると、お腹のふくらみを見て席をゆずってくれる人がいた。たいへん助かると話していたのを覚えている。彼女は小柄なので、ふくらみが平均以上に目立った。そうして3人の子どもを産んだ。毎回、切迫流産で、一週間ほど入院して産前休暇が始まるまで仕事をしていた。


 昨日、帰りの電車で通路側の席に座って本を読もうとしていたら、真横の通路に小柄な女の人が立った。お腹の前で鞄を持っているので、わかりにくかったが、微妙にお腹がふくれているような気がした。顔をちらっと見ると少し生彩がなかった。髪もしばらく美容院に行っていないような、昨日シャンプーしなかったような、そんな感じだった。マタニティー服ではなかったが、妊婦さんだと思った。うん十うん年前の妻の姿を思い出した。小さな声で「座りますか」と声をかけた。彼女はビックリしたような不安な表情を最初に見せたが、

「すみません、ありがとうございます」と言って席に座った。真横に立っていると心苦しいかもしれないと思ったので、私は一人分離れた場所に立った。鞄を網棚にあげて、本を読んだ。

それから25分ほどして私の降りる駅に電車が着いた。彼女は私に無言で会釈してくれた。こちらも同じようにして電車を降りた。

うれしかった。そのことは妻には話していない。

なぜか、ひみつにしておきたいと思った。