いとうのL.P. -2ページ目

自衛権の意味するもの。それは他国への先制武力攻撃だ。

9月17日、民主党の新しい代表が前原誠司氏(43)に決まった。前原氏は会見で、早速「憲法改正」について「憲法9条2項を削除して自衛権を明記するとの持論を示した。

 全ての戦争は、自衛の名の下に行われる
3千万以上のアジアの人のいのちを奪った太平洋戦争でさえも、当時は自衛のための戦争として正当化された。今もなお、日本には自衛の戦争であったと主張する人がいるくらいだ。
アメリカのアフガニスタン、イラクへの先制武力攻撃もまた、テロからの自衛のために行われた。「アメリカは開かれた自由な国だから、先に攻撃しなければ国を守ることができない」とブッシュ大統領は演説している。

攻撃は最大の防御であると言われる。自衛のためには先制攻撃が必要である。自衛のために武力を持つとした場合、自衛には先制攻撃も含まれる。
自衛という言葉は、戦争に対する歯止めにはならなことを、国民はもっとよく知る必要がある


憲法9条は、2項が最も重要だ。戦後60年間、ともかく日本が平和でアメリカやソ連などの大国が起こす戦争に巻き込まれずに、戦死者を出さずに済んだのは、憲法九条の2項があるからだ。

日本国憲法第九条の2項をここに書いておきたい。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。

自衛隊は、憲法九条2項があるから、外国の領土を攻撃するための装備を持つことを許されていない。また実際に戦争が起こっている地域での活動ができない。
イラク特措法は、第二条第3項で活動を次のように制限している。

(基本原則)
第二条 政府は、この法律に基づく人道復興支援活動又は安全確保支援活動(以下「対応措置」という。)
 を適切かつ迅速に実施することにより、前条に規定する国際社会の取組に我が国として主体的かつ積極的
 に寄与し、もってイラクの国家の再建を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に努めるもの
 とする。
2 対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない。
3 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を
 通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。
 
これは、日本国憲法第九条の2項の 国の交戦権はこれを認めない の条文があるからだ。
すなわち、日本国憲法第九条の2項の規定によって、自衛隊員の安全、国民の安全が、ともかく確保されているのだ。


日本国憲法第九条の2項について、「現に自衛隊があるじゃないか、現実と乖離している」と言う人がいるが、
最も現状に即した効力のある、いま最も大切な憲法の条文である


民主党新代表の前原氏の「憲法9条2項を削除して自衛権を明記する」の「自衛権」という言葉の意味するものは、外国が日本に攻めてきたら日本国内で武器を持って戦うということではない。
アメリカと同じように、脅威であると自分が認めた諸外国に対して、先制攻撃を含めた戦争を仕掛けるということを意味する。
先にあげた、イラク特措法に明記されているような活動の制限を取り払うことを意味する


私はみなさんに問いたい。
あなたの一票が自分の子どもや孫、そして彼らの愛する人々のいのちを奪うことになってもいいのですか。彼らを人殺しにしてもいいのですか。

選挙で民主党に投票すると言うことは、私の問いにYESと答えることになるのではないだろうかと私は考えています。

出張

この「いとうのL.P.」に相互リンクをしていただいているOneの管理者のayanoさんから、イメージバトンというものが回ってきました。


これまでのは叶姉妹→ゴージャス→名古屋→ラーメン→カレー→大泉洋→北海道→メロン→ 巨峰→梨→那須→ソフトクリーム→バニラ→カップ→ホテル

あやのちゃんは「ホテル」

ホテルと言えば<

おじさんとしましてはあなたの「黒い電話帳」

それともやっぱり、花園かぁぁぁ。ナーンテ思いましたけど、

ここはぐっと真面目 ホテル → 出張 でいかがですか。


バンガロール


仕事で出張するとなりますと、仕事内容はよりも、まず、宿泊ホテルの予約が気になります。 写真は、インド、デカン高原のBangaloreの TAJ RESIDENCYホテルの寂しい夜の一室です。

リンク

それで、次は3人に回すのがルールですが、私には回す人・受け取ってくれる人がいません。あやのちゃんのお言葉に甘えて、ストップにさせて頂きます。すみません。ありがとう。

高級車販売店に思うこと

 トヨタ自動車の高級車販売店が、昨日8月31日にオープンした。

私が通勤で毎日通る道路沿いにあったトヨペット店が、その高級車販売店に変わった。三面ガラス張りのシティーホテルのロビーのようなショールームには、高価そうな新車がずらりと並んでいた。  その高級そうな車の価格は500万円、600万円以上もするらしい。

どういう人たちが、どういう思いで買うのかということと、同時に、トヨタ自動車が、高級車販売店を設立した目的は何なのか、興味がわいた。 


 日本は、戦後から今日まで多くの 国民がこぞって中流意識を持てる平らな社会であると言われてきた。それを、選別された一部分の国民だけが中流意識を持てる社会に変えて行こうとする動きがある。弱い者の肉を強い者が食べる社会を私は好まない。それは人の進歩の歴史に逆行する動きだ


私は、これまで仕事でいくつかの国を訪れた。先進国と、発展途上国、未途上国の違いは、その国の大多数を占める庶民の暮らしぶりにある。庶民の生活が良くなることが、国が繁栄・発展するということだと思う。


 自動車はたいてい8年から10年もすれば見た目にもかなり古くなって、故障しがちになるので、新車に買い換えなければならない。これはその高級そうな車といえども例外ではない。30年間、その高級そうな車に乗り続けるためには、最低でも2000万円を超える莫大なお金が必要になる。それは、ほぼ庶民が家を新築する価格に相当する。家を新築するということは、庶民にとっては、一世一代の大事業である。銀行から多額の借金をして、20年、30年かけて返済し続ける。

やっとの思いで返済が終わる頃には、夫婦の髪には白いものが交じる。それが一つの庶民の暮らし方だ。

 返済の途中で、不運にも、勤めている会社がつぶれたり、リストラにあったり、大病を患ったりすると、手放さざるを得ないことになる。車を手放すのではない、今済んでいる自分の家を明け渡すのである。


一握りの大企業が、空前のもうけをあげる一方で、中小企業をはじめ「負け組」といわれる多くの企業が倒産している。日頃の長時間労働がたたって、体調を壊すサラリーマンが増えている。臨時社員、パートタイマーなど低賃金労働者の増加。大幅な能力給の導入による一般階層の実質賃下げ、配偶者控除の廃止、消費税率のアップ、年金の切り下げ、子どもの教育費の増大など、庶民の暮らしは良くなるどころか年々厳しくなる一方だ。一台500万円、600万円以上もする車は、多数の庶民の生活とは、かけ離れた存在である。  

 

トヨタ自動車のその高級車販売店では、基本的に値引きはゼロだそうだ。そのかわりに、いたれりつくせりのサービスを提供するとのことである。営業マンは、じゅうたんの床にひざをついて、名刺を顧客にうやうやしく差し出すそうである。

 その訓練風景をテレビのニュースでやっていた。見ていた妻が、

「ホストクラブみたい。」と、笑らいながら言った。

私もそのとき「雄琴のソープランド」を連想していたが、口にするのをやめた。

妻ほどの大胆さは私にはなかった。


 「なんかぁ、イヤやねぇ」

「ほんまに何考えとるねん?!」

ものの感じ方の部分で妻と意見が一致した。  


 トヨタ自動車が高級車専門の販売店を設立した目的の一つは、ブランド力を高めて、海外の高級車メーカに対抗しやすくすることにあるらしい。

お客は庶民大衆ではなく、富裕者層を対象に最高のサービスを提供する。

ボンネットの先端中央に付いているマークは、従来のトヨタのマークではない。

車の種類は従来の愛称ではなく、主に番号で区別される。

値引きはゼロ。(富裕層は値引きとは無縁なのか?)。

店は、高級ホテルやレストランを彷彿とさせる落ち着いたデザインに統一されている。

全国のトヨタ・ディーラーから選抜されて専門教育を受けた者が接客を担当する。


庶民が乗る大衆車に対して、「この店の車は、あんたがたの乗る車とは違うんですよ。」といわんばかりの露骨で徹底した差別化が図られている。

 ベンツやBMWなどすでにブランド力を持った海外の高級車メーカの物まねをしているように思われるが、実際は違うことをしている。

ベンツやBMWは、比較的安価な排気量の小さい小型車も作っていて、最近はそちらのほうにも力を入れている。

排気量の小さい小型車であっても、1000万円以上する高級車と同じ形のマークをつけている。

名前の呼び方も同じである。同じ店で同じように展示され販売されている。

もちろん、営業マンの名刺の渡し方は同じだ。


 ブランド力とは何か。何によって得られるものなのだろうか。ブランド力とは、商品の品質に対するユーザの信頼の結晶である。なによりもまず商品が世界中で一級の品質のものでなければならない。

ベンツやBMWの車がそうであるように、車そのものがそのブランドにふさわしい良い車であることが第一条件だ。

トヨタ自動車の高級車販売店で販売される、高級そうな車は、はたして第一条件を満足しているか、そこが一番の問題である。  


その高級車販売店でなされていることは、車の品質とは関係のない、顧客に対するサービスに関することだから、それだけではブランド力は生まれない。

 「商品は顧客が育てる」と言われている。

 それはお客様のニーズに基づいて商品作りをするのが、メーカの基本的な姿勢だからだ。すなわち、その高級車販売店に集まる人々のさまざまなニーズこそが、トヨタ自動車の高級車の品質を決める。


 値引きゼロの絢爛豪華な、いたれりつくせりのサービスは、はたして世界の高級ブランドにふさわしい良質な車のニーズ(要求)を集められるものなのだろうか。

総選挙を前に、靖国神社について

靖国神社は、かつて、戦死すれば神様として祀られる神社として、若者を戦争に駆り立てた神社です。

政府による国民に対するマインドコントロールのための重要な施設でした。


ご遺族の方々が靖国神社を大切に思われるお気持ちは理解します。

「戦死すれば靖国神社に神様として祀られるから、お国のために死んでくれ」

それが国民との政府の約束だったのですから。

しかし、二度とそんなばかげた約束をすることはごめんこうむりたい。

子どもや孫、その愛する人には、二度と同じ約束はさせたくない。

ぜったいにさせない。

これは戦死されたご遺族の方々と共通する思いであると私は考えます。

自民党の国会議員の中には、「将来の国難に備えて、(国民に)自分の生命を犠牲にしてでも国家のために尽くしてもらうために、閣僚は靖国神社に公式参拝しなければならない」と露骨に本音を言ってしまう人がいます。

リンク


犠牲にする生命とは、私達のいのちです。私達の子どもや孫、そしてその愛する人たちのいのちです。

庶民、みんなのいのちです。

一番大切なもの、そんなもん犠牲にはできません。

きっぱり拒否します。


首相、閣僚の靖国参拝に反対するのは、中国や韓国などから批判される以前に

日本人として許せないことだからです。


きょうから、

衆議院議員選挙が始まります。

平和のため、憲法九条を守る候補者に

サラリーマン増税、消費税の増税に反対する候補者に、

郵政民営化に反対する候補者に

私は一票を投じます。

田中康夫長野県知事が、元自民党「郵政民営化」反対派の新党・日本の党首

郵政民営化法案に反対した小林興起・前衆院議員らは21日、田中康夫長野県知事を代表とする新党「日本」の結党を発表した。


小泉自民党執行部の、「郵政民営化」反対議員は、守旧派、反改革派、無駄づかい派である。」という批判は間違っているのではないかと、多くの国民が疑問を抱くことになるだろう。



 



田中康夫長野県知事への協力要請

 郵政民営化反対派で自民党に離党届を提出した議員らが、都市部の有権者からの支持を目指す「第2新党」を立ち上げる方向で検討しているそうだ。田中康夫長野県知事に党代表を務めてもらうよう打診しているという報道がある。 国民新党の亀井静香氏も今月中旬、長野県内で田中知事と会談。国民新党など反対派への協力を要請したとみられている。


 元自民党の郵政民営化に反対する議員たちは、郵政・建設の族議員であって、『道路やダムを建設する「無駄遣い」の元凶』と見ている人が少なからずいる思うが、田中長野県知事が、郵政民営化反対派の元自民党議員らが作った新党を支持したり、一定の理解を表明したりするとなると「道路やダムを建設する「無駄遣い」の元凶」という見方は間違っているということが、多くの国民の目の前に、より明確になってくる可能性がある。

 私は郵政民営化反対派の元自民党議員の多くが、平和と憲法九条を守ることを主張していることに注目している。
しょせん、改憲をもくろむ自民党に属していた議員なので、彼らの言葉はそのまま信用できないし、信頼もできない。

しかし、自民党の国会議員の中にも平和と憲法九条を守ることを口にする議員がいるということに驚く。

またそれは、小泉内閣は危険きわまりない内閣であり、日本の平和と憲法に対する事態は緊迫しているということへの自民党内部からの告発であると思う。

「郵政民営化」とムダとは

 小泉自民党、そして、民主党などは、「郵政事業の民営化を推進する最大の目的は、郵便貯金・簡易保険に集められた国民の資金が、国債や財政投融資制度を介して公的部門に流れ、ムダづかいされている実情を是正することにある。」としている。


 ムダづかいとは、ある目的があってその目的の遂行のために役に立たないお金の使い方がされている場合のことをいう。

ムダかムダでないかを判断する上で、その目的とは何かをはっきりさせる必要がある。目的が異なればムダかどうかの判断は180゜違うことがあるからだ。


 郵便貯金、簡易保険に集められた資金は、国民の資金であるから、国民生活の向上のために使用されなければならない。

 郵便貯金と簡易保険を株式会社にして、国の保有するその株式を売却して私企業にすれば、郵政の本来の目的のために使用されるのだろうか。

 私企業の利潤の獲得のために使用されるのではないか。 株式会社にすれば、目的が変更されると考える方が正確だ。「郵政民営化」とは国民のために使用されることを目的とする国民の資金を、私企業の利潤の獲得を目的とする資金に変更するということだ。

 現状の郵政事業におけるムダづかいとは、その資金が国民の生活向上のために役立っていないことであるとするならば、「郵政の民営化」とは、国民生活の向上という目的に沿ったムダのないお金の使い方をしようとすることではなく、国民生活の向上という目的、本来お金の使われるべき目的そのものを変えてしまって、もっとおおぴらに、広く私企業の利潤の追求のために使えるお金にすること、国民にとっては、最大のムダづかいを固定してしまうことに他ならない。

国民はけっしてだまされないぞ!!!












民営の「民」は、国民の民ではない

小泉内閣がなりふり構わず、強権的に推し進めようとしている「郵政の民営化」。


 郵便局に集まった総額300兆円と言われるお金の大半は、年間所得がX百万円台の一般庶民が毎月の家計を切りつめて蓄えた汗と涙の結晶である。


300兆円を「民間」が利用できるように「民間」に流すのだという。

そのお金で、株式を買って、民間会社に投資できるようにするのだという。


この場合の民営化の「」、民間の「」とは、いったい何を指すのだろうか。

「民」は、国民大衆の民なのだろうか。

民間とは、われわれ国民のことなのだろうか。???


 もし、民営化されたなら、国民の中には、郵政会社の株を買う人がいるかもしれないが、それはごく僅かな株であって、国民大衆が経営権を掌握することはとうてい不可能である。すなわち、小泉内閣がいう「郵政民営化」の「民」は、国民大衆の「民」のことではない。

民営化された郵政会社の株を大量に買ってこれらの会社の経営権を取得する者こそが、「民」の正体であると考えられる。

 郵便局に集まったお金で、国が無駄遣いをしていると彼らは主張する。
 彼らのこの理屈はおかしいのではないか。
 国が無駄遣いをしているのなら、行政の長である総理大臣がなぜその無駄遣いを正さないのだ。
それが総理大臣、政権党の国民に対する責務のはずだ。

総理大臣が、国が無駄遣いをしていると言って、郵便局の経営権を放棄するとは、甚だしい責任逃れ、職務放棄である。

今なら、国の主権者である国民は、国の郵便局のあり方、そのお金の使い方を正すことができる。

小泉内閣によって、国民の郵便局の経営権を、彼らが言う「民」に渡されてしまってからでは遅い。

国民の意志は、「利用者の要望」になってしまう。

国民は、主権者として、少なくとも、現政権党には、ノーの意思表示をしようではないか。

「郵政の民営化」は、国民のお金を国民ではない「」に、自由に使わさせるようにするために、「」の回し者がすることだと私は思う。


国民は決して騙されないぞ!!!

野中広務氏 わが町へ来たる

終戦60周年を迎える8月15日に、元自民党幹事長、野中広務氏がわが町に来て講演される。

タイトルは「戦争と平和について-いま日本を憂う-」

野中さん2        野中さん


 野中氏は、自民党の元大幹部であり、京都蜷川革新府政を倒した人間である。

実は、私とは思想信条が大幅に異なる。

 しかし、野中氏 が政界を引退するときに残した「私は戦争体験者であるから、これからは戦争の語り部となる。」の言葉が強く印象に残っていた。


8月15日の記念すべきその日に、滋賀県の小さなわが町で、その言葉を実践される。


 戦争に反対するためには、あらゆる思想信条、立場の違いを乗り越えて、「戦争反対」の一点で大同団結することが必要だと思う。

 あの、野中氏がどういう内容の話しをされるのか。私は8月15日、わが町の市役所大会議室で開催される、野中広務氏の講演を、大きな期待を持って聞きに行く。


参考資料

自主・平和・民主のための広範な国民連合月刊『日本の進路』2005年6月号

野中広務氏(元自民党幹事長)に聞く

(http://www.kokuminrengo.net/2005/200506-nonaka.htm)リンク

(一部抜粋掲載させて頂きます)

忘れてならぬ不戦の誓い

 小泉さんは、自民党五〇周年記念だから憲法改正案を出すなどと言っています。しかし、一国の総理なら、戦後六〇年という還暦の年を迎えて、この六〇年を総括し、これからの国家像、国家戦略を考えなけりゃならない。そういうメッセージが、なぜ総理の口から出ないのか。
 また、非常に場当たり的な外交の結果、中国と取り返しのつかない亀裂が生じた。韓国とは、民間の文化交流が庶民レベルに広がってきた重要な時に、心ない地方議会の決議によって、お互いに譲り合い暗黙に認め合ってきた関係に、あのような事態を起こした。こういう形で、中国、韓国や北朝鮮との関係が非常に悪い状況になっていることに、一つの時代を歩いてきた人間として心を痛めています。
 小泉さんはさらに、ロシアがドイツに勝った六〇周年式典に行った。六〇年前の五月、ロシア(旧ソ連)はドイツに勝ったので極東に軍を移し、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、旧満州、朝鮮半島へと攻め込んで来た。これによって、日本軍人・民間人に大変な犠牲者を出し、中国にたくさんの孤児を残した。数十万人ともいわれる人たちがシベリアに抑留され、今も、シベリアの凍りついた土地に三千人を超える人たちが眠っている。その遺骨の収集もできていない。樺太は返したことになっているが、北方四島は不法占拠されたまま、六〇年もたっている。こういう状況になったのは、ロシアがドイツに勝ち、参戦する余力ができたからです。小泉さんは、各国首脳が行くからということで出かけたが、なぜ歴史を検証し、考えて行動してくれないのか。本当に残念です。ロシアとは、まだ平和友好条約も結べていません。ロシアは総理の参加にどう反応したか。この式典に行かなくても、総理が単独でプーチンと会談できるんです。
 他方で、国民の不満が出てくると、目くらましに、日本が安保常任理事国になれるかのごとき報道が相ついでいます。戦争で勝った五カ国が常任理事国で拒否権を持ち、日本とドイツは国連憲章で敵国条項に入れられている。こういう状況の中で、日本が何の抵抗もなしに常任理事国になれるかのような幻想を、国民に与えています。
 そして、アフガンやイラクに対する戦争では自衛隊を派遣し、日本のファシズムがだんだん大きくなっている。中国が恐い、北朝鮮が恐いから、軍備を強めなきゃならん。集団的自衛権だ、憲法改正だ。そんな方向へ日本は持っていかれ、だんだん右傾化している。その結果、日本はどうなるのか。われわれは、六〇年前の不戦の誓いを忘れてはいけない。こんな時代になりつつあることに、私は悲憤慷慨しております。


戦争映画

私はよく戦争映画を見に行く。最近では、「戦国自衛隊」を見た。戦争映画には、戦争に対する批判的な描写に欠ける映画、意識的に戦争を美化しようとする映画、戦争を不可避なものととして肯定しようとする映画が少なからず存在する。しかし、戦争は本質的に悲惨なものであるから、どんなに美化して描こうとしても、本質を誤魔化しきれない。  


 まるで子ども達の夏休みにあわせるかのように、今全国で一斉公開されている映画「亡国のイージス」は、防衛庁と自衛隊の協力を得て製作された。テロリストとそれに立ち向かう自衛隊員との攻防を描いた映画だそうである。試写会の会場には石破茂前防衛庁長官や、海上幕僚監部幕僚長らが来て、

「協力を決めたのは、戦争賛美をするためではなく事実を伝えるため映画を通じ若い人に国を守る、戦争というのはどういうことか考えてもらいたい」と語ったというから、やはり、ねらいは、子ども達の心の中に「武力で国を守る」という危険な責任意識を、映画を通じてソフトに浸透させることにあると思う。


 彼らが言う守るべき国とは何を指すのだろうか。映画では、年老いた両親、妻や子ども、恋人などが守る対象として描かれる。 しかし、実際は、戦力に圧倒的な優劣の差がない限り、戦いは「相打ち」が基本である。すなわち、相手も倒れるしこちらも倒される。それが戦争というものだ。

 また、私は子どものいのちを犠牲にして、自分のいのちを守ってもらおうとは思わない。それは多数の親の気持ちであると思う。また、軍隊が私のいのちを守ってくれるものだとは考えられない。軍隊とは国民のいのちを守るための組織ではない。それは物理的に不可能なことだ。国民は守られるのではなく、兵隊にさせられる存在である。


 彼らが守る対象としているものとは、ほんとうは国民のいのちではなく、国の極々一部の少数の何かであると想像する。

 国民のいのちと暮らしを守る方法、それは日本の平和憲法を守ること、日本の平和憲法を世界に広めて、全ての戦争に反対することであると思う。

戦争映画を見るたびに、戦争反対を叫ばずにはいられなくなる。そのために私はしばしば戦争映画を見に行きます。