いとうのL.P. -3ページ目

国を守るというまやかし

 私は戦争と戦争につながるものに反対している。

戦争に反対と私が書くと、「誰でも戦争は嫌や、戦争を好きでする人はいない。そんな当たり前のことを言っても意味がない。聞きたくない。」ということを言ってくる人がいる。

そういう人は、たいてい、「他国の侵略に対して日本を守るために軍隊が必要だ。」と言う。


彼らに問う。

軍隊で何をするんやねん。戦争をするんやろ。!!

好きであろうが嫌いであろうが、戦争をするちゅーことやないんかい!


 彼らの、軍隊の派兵先は、イラクやイランだったりする。

イランやイラクに戦争を仕掛けることやないか。

それはアメリカのアメリカの権益のための戦争に加担したいということやないか。


ほんとうに戦争が嫌であるのなら、戦争に反対しよう。

今、黙っていたのでは、とりかえしのつかないことになる。

事態は緊迫してきていると思う。


日本の平和を守ろう

 私の父は、1923年大正12年生まれである。20年ほど前、私は父の小学校の同級会の名簿作りを手伝った。父が作成した原稿をワープロで清書する。その原稿を見てたいへん驚いたことをはっきり覚えてている。
それは名簿の住所の欄に、戦死 と書かれている男子が何人もいたことである。男子のうちの約1/3以上に戦死という文字があった。
知識としては十分に知っていたつもりであるが、その暗黒の時代の絶対に動かぬ悲しい証拠を目の前にぐいと突きつけられたようでたいへんショックだった。

父は、太平洋戦争が終わった1945年昭和20年には22歳。2歳年上の父の兄のクラスでは戦死者がもっと多いらしい。クラスの半数以上の男子が戦死しているということを父が話してくれた。


 私と妻とは小学校の同級生であることから、しばしば同級会の幹事をさせてもらう。回を重ねる毎に病気や不慮の事故で亡くなった同級生が一人二人と増えていく。あいつが死んだ、あの子が死んだ という知らせをもらうたびに、たいへん悲しい気持ちになる。同級会の案内状の返信を遺族の方から頂く。そこに生前の親交に対するお礼の言葉が添えられていたりする。彼、彼女とはもう会えないという寂しさと同時に、人生半ばにして逝ってしまった同級生の無念な気持ち、愛する息子や娘を亡くされたご両親・ご家族のお気持ちを想うと、涙が出てしまう。妻にみつからないように拭く。科学がめざましい発展をとげた今日であっても、重い病に冒された身体、深く傷つけられ身体は、簡単には治らない。人が努力に努力を重ねても救うことのできない、救われないいのちがたくさんたくさんあるのだ。


 「敵と戦って死ぬことが名誉である。」「生きて虜囚の辱めをうけるな。」そんな軍国主義思想で塗りつぶされていた父の青春時代。しかし、死に対する人の本当の気持ちというものは、今の私達のそれと変わらないと思う。死にたくない。死なせたくない。死んだなんて信じられない。人が人である限り、太古の昔からどんなに時代が変わろうとも、不変であると私は思う。だから、戦争で亡くなった若者の気持ち、戦争で息子や娘を亡くした親の気持ちは、私達にも想像がつくはずである。
戦死とは、病気や事故で死ぬのではない。国の徴兵制度によって無理やり兵隊にされ、国の命令により、他国の国民を殺しにいく過程で、逆に自分が殺されてしまったということである。


国が国民に人殺しを強要し、いのちを捧げよという、そんな野蛮なことは二度とあってはならない。
子どもや孫、ひ孫、そして彼らの愛する人たち
を、戦場に送るわけにはいかない。

誰一人として、戦死させてはならないと思う。


 自民党憲法改正草案1次案が2005年8月1日に発表された。
「侵略から我が国を防衛し、国家の平和および独立・国民の安全を確保するため自衛軍を保持する。」
と書いてある。とんでもないことである。
と同時に、現政権党が発表した『改憲草案』であるという点において、身の毛のよだつほどの恐ろしさを覚える。非常な危機感を持つ。

 国の防衛とは、国家の平和とは、なにか。厳しく問われなければならない。


 国民に鉄砲を持って人殺しを強要する軍隊を保持することが、国民の安全を守る方法ではない。
むしろ反対に、軍隊とは、国民のいのちと小さな幸せをも奪うものである
それは、父の同級生名簿からも、明白な真実である。
鉄砲で国民のいのちが護れるはずがない。砲は人のいのちを奪う凶器だ。

映画「ヒトラー」と猪瀬のコメント

 明日は、仕事の帰りに妻と待ち合わせて、「ヒトラー」という映画を見に行ってきます


そのために、「お先にぃぃ」と言って会社を一番に出る。

みんなも早く帰れという私のメッセージである。


 映画「ヒトラー」の新聞広告には、猪瀬直樹が「破綻寸前のカリスマ経営者ってこうなんだな、と妙に今日的な感興に浸ったのである」という、実にピントはずれなメッセージを寄せている。


ヒトラーと言えば、ユダヤ人虐殺、何千万人もの人間のかけがえのない幸せと人生を奪った侵略戦争の責任者、戦争の犯罪人、ファシズムの権化、そして彼に対する戦後の徹底的批判と追求。今危機に直面している日本の平和憲法。連想する今日的な重要なテーマはいくらでもある。

それを、「カリスマ経営者」を連想するとは、なんともわざとらしい。

国民をばかにするのもいい加減にして欲しい。


会社が破綻さえしなかったらカリスマ的資質を持った経営者は社員から尊敬され慕われる。優れた経営者である。

ヒットラーも、戦争にさえ敗れなかったら、彼は英雄でみんなから支持され尊敬される存在だとでも考えているのだろうか。

とんでもないことである。

ドイツやヨーロッパで同じことを書いたら、小学生からさえも批判される。

その時点で、彼の評論家としての生命は終わるだろう。

日本の戦争責任者、戦争遂行者、すなわち最高責任者を頂点とするいわゆるA級戦犯たちも、戦争に負けさえしなかったら、大いに尊敬に値する人たちだと言わんばかりのコメントである。そういう考えだから、平気で「靖国神社」に参拝できるのだ。

とんでもないことである。

彼は、政治に対して、改革とか批判的な主張をしているように見がちであるが、


もっともらしい言い方ともっともらしいふりをして、実は、今日的な重要な話題から国民の目をそらすのが猪瀬の役割ではないかと思う。


国民は、けっして騙されないぞ。

夫婦生活

 先日、ある既婚女性から質問されました。

40歳過ぎても夫婦の交わりってするものなんですか?」

「それりゃ、私達はしますよ。頻度はちょっと少なくなくなりましたけどね。 

お互いに同時に性欲を感じたらするんじゃないですか。」と答えました。   


 私の妻の場合、性欲の波は生理の周期と同期しています。しかし、私と喧嘩すると性欲は消滅するらしいです。

帰る・別れるの大きな夫婦喧嘩は、ほとんどしたことがありませんが、ささいな意見の対立は、しょっちゅうあります。この間もマクドナルドのドライブスルーで、助手席の妻が注文をなかなか決めないため、「はよせんかい」と言ったら、えらく気分を害したらしい。しばらくふくれっ面をしておりました。丁度、妻の周期は、性欲が昂揚している時期でしたので、その晩、妻と交わろうとしたら、しっかり拒否されました。今日はその気になれないと。  


 私の場合は、周期的なモノはありません。妻の女の身体から刺激を受けると性欲を覚えます。たとえば、寝床に入っていて、隣の布団に妻が来ますとなんとなくどことなくモコモコむずむずしてきます。条件反射のようにたいへん単純です。ですから、妻と喧嘩しようが何しようが問題ではありません。仕事で夜帰宅が遅くなって、また明朝早く起きなければいけない時は、するのを思いとどまりますが、休日の前なんかは、先に寝ている妻をたたき起こして・・ということもありますね。

でも、たいていは「寝てるのに何するねん」足で蹴飛ばされます。

夫婦といえども、交わりはなかなか意のままにはならないもんですなぁ。お互いに。

だからこそ、また挑戦させていただきたくなるのかもしれません。


危険きわまりない武器の使用

 イギリス・ロンドンの連続地下鉄爆破事件で警戒中の警官が、テロとは無関係な市民を射殺してしまった。ブラジル出身の27歳男性。電気技師。出勤途中だったらしい。ロンドン警察は遺憾の意を表明する一方で、テロリストと疑わしき行動を取った警官の指示に従わない者は射殺するという方針は変えないと言っている。
「テロリストとたたかうためには『多少の犠牲』はやむをえない」ということだろうか、とんでもない間違いだ。

 ひとりひとりのいのちは、かけがえがない最も大切なものである。いかなる理由があろうとも、人のいのちを奪うことは許されない。


 目的達成のためには『多少の犠牲』もやむなしとする考え方は、テロリストの主張と同じである。テロの論理を認めるようなものである。よけいにテロリストたちを勢いづかせることになる。


 7月23日の早朝、折しも私は「イギリスのテロ」というタイトルで、警官のピストルには使い道がないことをこのブログに書いた。私が最もおそれていたことが現実に起こってしまった。


 暴力に対して暴力で対抗するのではなく、正義と道理を持って対処するべきである
もしそれが無理だと考えるなら、自分たちの主張がほんとうに正義と道理にかなったものであるのか、厳しく問い直す必要があると思う。


 

テロリストと暴力

イギリスのテロ  


 イギリスでテロが続発しています。いかなる主張であろうとも暴力を使うことには反対です。犯人は法に基づいて厳正に処罰されるべきです。

 暴力で人を脅したり殺したりして自分の主張を通そうとする人達の集団を暴力団と呼びます。暴力団に対して、暴力で立ち向かおうとするのは、暴力団同士の抗争事件です。  


 警官はピストルを持っているので正当な暴力は必要であると誤解しやすいですが、これは大きな間違いです。ほんとはピストルの使い道はないのです。

 警察が暴力団事務所に踏み込むとき、ピストルを振りかざして、「手を挙げろ、君たちは完全に包囲された、抵抗を止めて出てこい」とはやりません。振りかざすのはピストルではなく、裁判所が発行した家宅捜索令状や逮捕令状です。暴力団が最も恐れるのは、多数の市民の目と声です。

 暴力団は、おそらくピストル、機関銃を所有しているでしょう。しかし、警察に対してそれらの武器は使用しません。むしろ隠さないと不法所持の現行犯で逮捕されます。武器は使いものになりません。

 暴力団がピストルや機関銃を使用するのは、暴力団同士の抗争の時です。  


 戦争は、最大の暴力です。

 軍隊は、国営の暴力団のようなものと言えます。テロリストに対して戦争を仕掛けるのではなく、テロリストは法に基づいて厳正に処罰されるべきだと思います。

パソコン故障

 落雷による影響で、ブログなどの読み書きに使用しているパソコンのモニターが故障しました。

7/16から7/18の休みの間に修理する予定です。修理が完了するまで留守にいたします。

ご了承お願いします。

3匹のカエルのお話しと私

3匹のカエルのお話しと私  


 カエルが野原をぴょんぴょん飛んでいると、池がありました。たいへん良いにおいがするので、カエルは池に飛び込みました。そこは牛乳の池でした。カエルは生まれて初めて牛乳を飲みました。こんなにおいしいモノは他にはないというので、毎日、その池に入って牛乳を飲みました。

 ある日、いつもと同じように池に飛び込んで、おいしい牛乳をお腹一杯飲んで、池から出ようとしたとき、ぴょんと跳び上がっても池の縁まで飛び上がることができません。毎日たくさん牛乳を飲んだため、太ってジャンプ力が落ちてしまっていたのです。何度か思い切り力を込めてジャンプしましたが、上まで飛び上がれませんでした。

 そのカエルは、たいへん悲観的なカエルでした。「もうだめだ、もう出られない、死ぬしかない。」とあきらめてしまいました。ジャンプするのはやめて、毎日、牛乳を飲み続けました。カエルはますます太って、栄養過多でついにぶくぶくぶくと池の底に沈んで動かなくなりました。  


 ある日、別のカエルが、牛乳の池に飛び込みました。同じように牛乳を毎日飲んで太って、池から出られなくなりました。

 そのカエルは、たいへん楽観的なカエルでした。「まさか、自分が死ぬことはないだろう。きっと誰かが助けに来てくれるに違いない」と思って、池の中から出ようともしないで、毎日牛乳を飲み続けました。助けが来るのを待ちましたが、誰も来てくれませんでした。カエルはますます太って、栄養過多でついにぶくぶくぶくと池の底に沈んで動かなくなりました。  


 また、ある日のこと、別のカエルが、牛乳の池に飛び込みました。同じように牛乳を毎日飲んで太って、池から出られなくなりました。

 そのカエルは、たいへん現実的な考え方をするカエルでした。「このままでは、自分は死ぬかも知れない」ということに気付いたカエルは、池の縁に飛び上がろうとジャンプを繰り返しましたが、どうしても上がることができません。それでもカエルは、牛乳を飲みながら体力を付けて、来る日も来る日もジャンプを繰り返しました。すると、どうでしょう、牛乳の池がどろどろしてきました。カエルがジャンプするために足を何度も何度も動かしたので。、牛乳がかき回されて、ねばねばになりました。そして遂に牛乳は硬く固まってきました。牛乳がチーズになったのです。そのカエルはチーズに足をかけて、やっとの思いで池から脱出することができました。

 

 今、日本国憲法を変えて、再び日本を戦争する国にしようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭してきています。

私一人の力はほんの微々たるもので、とうてい太刀打ちできないようにも思いますが、今の状況を正しく認識して、けっしてあきらめることなく、現実的なカエルのように、私は足をばたばたと動かし続けることに決めました。


(3匹のカエルのお話しは、人から聞いたものです)

60年目の沖縄慰霊の日に寄せて

昨日6月23日は沖縄慰霊の日です。60年前の昨日、すでに沖縄の日本軍は壊滅し日本軍司令官であった牛島中将は自決しており、アメリカ軍が敗残日本兵の掃討作戦を開始した日にあたります。
 
 太平洋戦争末期に、沖縄本島にアメリカ軍が上陸し日本軍沖縄守備隊との間で、住民を巻き込んだ地上での戦闘がおこなわれました。
20万人以上の尊いいのちが奪われました。住民の死者は約15万人と書いた記録があります。
沖縄の戦争の記録は、自分の住んでいるところが戦場になったらどういうことおこるのかということを私達に教えてくれます。
 
 私はこれまで澄みきった美しい青い海に潜るため、何度か沖縄を訪れました。沖縄で「戦争」という言葉を口にすると、多くの沖縄の人の顔が曇ります。無口になられます。まずいことを言ってしまったと後悔しそうになります。
それは戦争というものが、いかにむごたらしいものであるかということを、沖縄の人はよくご存じだからだと思います。

 凶悪犯罪による集団殺人事件や過失による大事故など人のいのちが奪われるのは戦争だけではありません。どの現場もその悲惨さにかわりはありません。しかし、戦争と、事件や事故が決定的に違うこと、

 それは、事件や事故では、119番をすると救急車がきます。レスキュー隊が救助してくれます。たまたま居合わせた人が助けてくれることもあります。病院では高度な救命医療が受けられます。

 戦争では、119番してもダメです。周りの人も余裕がありません。自分が生きるだけが精一杯な状況です。病院も破壊されます。残った病院は、政府の管理下に入り、一般人の診察は後回しになります。


 沖縄戦での証言テープをテレビで聴きました。砲弾が命中して家が吹っ飛んだ家族。幼い子どもだけが重症を負いながらもなんとか生き残った。「たすけて、たすけてー」と泣き叫ぶ子どもを前にして、なにもしてやれなかった。60年たった今もその子の声が耳から離れないとおっしゃっていました。


 事件は、法律違反の犯罪人が起こすもの、事故の原因は批判の対象となります。
戦争はどうでしょうか。戦争は国家がするもので法律に基づいて行われます。すなわち戦争を起こした人々は自分が処罰されないよう、戦争を合法化する法律を作ります。戦争に異を唱える者は逮捕するなどして、批判の口を封じます。それが戦争です。


 平和を訴えると、朝鮮などの具体的な国名をあげて、それらの国が攻めてきたらどうするのだと凄む人がいます。国民を守るのだと勇ましいことを言います。それは空威張りにすぎないのではないでしょうか。
国を守る国民を守るいのちを守るとはどういうことでしょうか。
私は、日本をかつての沖縄のような戦場にすることはできません。

戦争をしないことこそがいのちを守る合理的な方法だと思います。


そのために、まったく微力ではありますが、こういう話しをプログに書いて、再び日本を戦争する国にしようという企みには反対していきたいと思っています。

自画自賛の意味すること

 福知山線列車脱線転覆事故について、私は2つ記事を書きました。


今、振り返ってみますと、

私の4月28日の記事は、事故原因の核心を突いていることに気がつきました。

事故発生4月25日のわずか3日後に書いた記事です。

我ながらたいしたものだと思います。これは私の日頃の勉強のたまものと言いたいところですが、ほんとうは、私でも原因を容易に推定できるような事故であったということです。

事故は起こるべくして起こったということになるのではないでしょうか。


妻の職場の友人で、JR西日本の株を数株持っているという女性(奥様)二名が、仕事を休んで6月23日の株主総会に、初めて出席するらしいです。私はビックリいたしました。


 株主総会の議決は、株式会社の最高の意志決定です。経営方針が決まります。

社長などの役員を選ぶのも、株主総会です。

もし、乗客の安全を二の次にするような経営方針に、今回の事故の大きな要因があるのなら、そういう間違った経営方針を承認した株主の責任もゼロではありますまい。


ほとんどマスコミでは取り上げられませんが、今回の事故はJRの民営化と切っても切れない関係があると、私は思っています。株主は利用者の安全を守ってくれるのだろうか。

株主総会の結論を聞きたいと思います。。