いとうのL.P. -5ページ目
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土俵に女があがれないわけ

「日本の伝統」ということばに騙されてはいけないと思う。

江戸末期や明治に始まったことを、日本古来の伝統だと言われても、納得がいかない。その典型は、日の丸と君が代である。伝統イコール良いことだとは限らない。それが良いことか良くないことか、なぜその「伝統」が生まれたのか、個々の伝統についてマジメにきちんと考える必要があると思う。日本国憲法のもとの日本はけっして「君の世」ではない。主権者は国民である。日の丸は、幕末の頃に、島津藩で使用されたのが始まりらしい。軍国主義日本のシンボルとして使用された旗だ。ヨーロッパで言うなら、ドイツナチスの鍵十字Hakenkreuzのようなものである。国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄の日本国憲法にふさわしい、国民に夢と希望を与えるような、新しい旗と歌を創って欲しい。

トンネルの神様は女性なので工事中のトンネルに女性が入ると神様がヤキモチを妬いて事故が起きるから、女性はトンネルに入ってはいけないというけったいな「伝統」がある。

工事中のトンネル内で行われた貫通式に、一人の女性議員さんが出席して、この「伝統」はみごとに破られた。そのいっぽうで、労働基準法は女性の構内労働を禁止している。有害で過酷な重労働に対する母性の保護という合理的な理由がある。雇用の機会均等は大切なことだが、母性の保護はそれ以上に大切なことだと思う。女性が働きに出ること。それは今に始まったことではない。庶民の間では女性と子どもは貴重な労働力であった。働きに出れば安い給金でこき使われた。過酷な労働は女性と子どものからだに重大な悪影響を与える。だから、女性と未成年者に対する保護規定が法制化された。庶民の長い苦難の歴史の中で、やっと国の制度として実現された保護規定だ。簡単に白紙に戻すわけにはいかないと思う。

 大相撲の土俵に女性が上がってはいけないという「伝統」についてもその理由を考えてみる。

「伝統」だけでは理由にならない。これはあくまで私の私見ではあるが、力士にとって土俵は修行の場であり、辛抱の上に辛抱を重ねる場所。女性を土俵にひとたび入れれば、血気盛んな年頃の力士たちは女性の魅力に辛抱たまらず、稽古に身が入らなくなる。女性のことを考えるのは稽古が終わって土俵を降りてからにしてくれという親方の気持ち。それが元々の主旨ではないかと思う。
共学の学校では異性に気を取られて勉強がおろそかになるという話しにも似ている。私は仕事で女子大に行くこともあるが、入門チェックは大変厳しい。男性が門の前でうろうろしていると警備の人が門の外へわざわざ出てきて、「用事は何か」と質問されることがある。
男にとっても女にとっても異性というものは、たいへん気になる存在なのだ。本当の理由を言わないで、もっともらしい屁理屈を付けるから話しがややこしくなる。異性は最も大切な愛の対象である。女性は汚くも汚らわしくもない。はっきり書けば、女性のそこに顔を埋めるとき、多くの男性にとってそれは至福の時なのである。

女性が大相撲の土俵の上に上がる日はそんなに遠くはないと思う。太田知事にはぜひミニスカートで土俵に上がって欲しい。

(hommaさんの同タイトル記事へのトラックバックとして)

バレンタインのケーキ

一ヶ月前にもらったバレンタインデイのケーキです。思い出しましたが、週末にさせて頂きます。ごめんね。かぁちゃん。

散髪行ったん?

 今の私の職場は、ほとんどが男性である。人数は少ないが女性もいる。昨日までとは違うこざっぱりした髪をしている人を発見すると、私はたいていほぼ全員に「散髪行ったん?」と声をかける。多くの人は少し照れくさそうな笑みを浮かべながら、「そうなんですよ。行ったんですよ」と返してくれる。

  女性に対しても、「散髪行ったん?」と私は聞くので、へんなおっさん、いやらしいおっさんと思われているかもしれないが、私の声かけに対する彼女らの笑顔を見ると、たいへん心がなごむ。中には、私の質問の意味を理解するのに一呼吸、あるいは二呼吸、必要な人もいる。間が開くと焦るが、時間がかかった分、理解してもらった瞬間の笑顔は最高である。

 美容院行ったん?とか、他のもっと気の利いたことばがあると思うが、私は「散髪行ったん?」でずっと通すつもりでいる。 

様と「さん」と能楽

様とさんと能楽

 京都では、少し前まで天皇のことを「さん」付けで呼ぶのがふつうだったらしい。天皇さん、天皇はん という言い方である。
様(さま)という敬称は、関西的なことばではないと私は思う。最近では、仕事等で「お客様」という言い方をすることも多くなったが、関西人は、「さん」を使う。「様」には非常によそよそしい響きを感じてしまう。
 
 「様」は関東地方のことばなのかどうかそれはわからない。関西のことばは全国的に見てかなり特別である。文字にした場合の「ことば」の違いだけではなく、文字は同じでも発音(アクセントなど)の違いが著しい。日本語のアクセントは、強弱ではなく音の高低である。

 先日、NHKテレビで、観世流の能と狂言を見た。能や狂言の発祥は関西である。能のせりふや謡はもっぱらいわゆる関西ことばの発音アクセントによるものになっている。もちろん江戸時代になって、活動の拠点を江戸に移した流派があるが、近年になって、それまで関西に拠点を置いていた流派の方が、続々と拠点を東京に移してしまっているという現実がある。活動の拠点だけではなく、生活の拠点を東京に移されている。これは一つの大きな問題を生む。先代は関西に住んでいて日常的に関西ことばを使用していたが、その跡継ぎである子どもさんは、東京生まれの東京育ちで、関西ことばの発音すなわち、関西アクセントが身に付いていないということが起こる。

 もちろん伝統芸能であるから、伝統は正しく受け継がれるように努力されていることと思うが、生まれてから一度も日常的に関西アクセントを使用していない人が、関西アクセントを正しく発音することは、かなり困難なことであると思われる。
私が見たテレビの能においてもその傾向が見られた。所々に東京アクセントらしきものが散見された。アクセントのゆらぎがあった。
シテの方は、ごく僅かでほとんどわからなかったが、地謡といわれる謡のなかには東京式アクセントがかなり目立った。また小学校低学年と思われる子役の方(シテの方のご子息またはお孫さんらしい)のせりふは、相当な部分が東京式のものであった。
たとえば「行く」の、関西アクセントと東京アクセントの違いは、微妙であってかつ明確である。相互に簡単には真似ができない。

 しかたのないことと思うが、関西人のはしくれとしては残念でたまらない。
 

ロケット

 日本のH2Aロケットがやっと打ち上げに成功した。中国の有人衛星の成功のニュースを聞いて久しいというのに、技術立国日本はどうなったのか。
 打ち上げのニュースを見ていて気になることがあった。ロケットを作っているメーカは、あのリコール隠しで国民を欺き、批判をあびた自動車メーカの親会社ではないかという点。ロケットの先端部分を担当しているという別のメーカの作ったオートバイは、私の友人のバイク乗りに言わせると、あまり評判がよくないという点である。

 航空・宇宙産業というものは特殊で、ある意味閉鎖された産業である。軍需産業とも密接に繋がっている。たとえば、戦闘機や戦車は政府の許可がないと開発できない。製造できない。そのかわりに、一たび許可をもらえば、開発にかかった費用は出してもらえる。その製品はほぼ独占的に政府に納入可能だ。こんなに「うまい話」は他にはあまりない。

 一般の自動車メーカが新車を開発するとき、開発費は自社持ちである。もし新車の評判がよくなく、当初の予定通りに売れなかったら、開発費も回収できない。そういう大きなリスクをかかえて新製品というものが開発される。これがふつうの製造業のかたちである。それは少なくとも国民の常識と一致する。
 H2Aロケットは兵器ではないが、開発費についてメーカは責任をはたしているのだろうか。また打ち上げに失敗したロケットは、不良品としてきちんとメーカに返品されているだろうか。今回の打ち上げにあたって、設計変更をした部分がいくつかあるらしい。それらはメーカの責任でなされたのだろうか。国民の血税が無駄に使われていないか、たいへん気になるところである。
 政府は誤魔化せても、国民は騙されない。

サラリーマンと夢

 ライブドアの堀江社長のニュースを見て、オーナ社長とサラリーマン社長の違いを強く感じます。
堀江さんの言い分はたいへんわかりやすい。それは自社の発展が自分の夢であるから。それに対してサラリーマン社長の使命は、あくまでも「自らの職責の全う」にあるからではないかと思う。堀江さんのひとつの思いが実現するかどうかはわからないが、夢とか熱い思いに対して共感し声援を送る国民は少なくないはずである。

 では、サラリーマンには夢がないかといえば、そんなことはない。名のない平社員でも、職責を全うするということではなく、自分の仕事に夢(理想の実現)を持って働いている人はいくらでもいる。しかし、残念なことにサラリーマンの夢は社会から評価されないことが多い。ニッポン放送の従業員へのテレビインタビューで、会社の言い分と全く同じことをそのまま述べる人もいたが、「視聴者の方が喜んでくださる放送をしたい」と言う人もいたのが私にはたいへんうれしかった。

散髪

 一昨日、遅い夕食をと一緒に取っていて思いついたこと。

 わが家族が住んでいる市は、人口約11万人。およそ半数が男性であるとして、5万5千人。そのうち乳児は除外して、約5万人の男性が散髪屋に、2ヶ月に一度(3週間に一度の人がいれば半年間も行かない人、家人に自宅で刈ってもらう人もいると考えられるが、それらも合わせて平均的な数字として)散髪に行くと仮定する。料金は、私の通っているところは3990円であるが、3000円と仮定する。

 市民(男性)が一年間に散髪に使うお金の総額は、これらをかけ算して

 3000円 X 50000(人) X 6(回/年)
      =9億円 (/年)

 となる。 

 市内の散髪屋に行くとは限らないが、わが市には、散髪屋さんは何軒あるのか。
いつもおせわになっています。

殿と様

地元の市役所に勤めている友人から、市役所では宛名に使う敬称を、従来の「殿」から「様」に全面的に切り替えたという話しを聞きました。国語辞典によれば、「殿」は古風で形式張った敬称とあります。友人曰く、「殿」より「様」のほうが丁寧というのがその理由らしい。 私の場合、社内のあて先には殿を使ってきた。外注業者に対しても同じである。いっぽう、客先に対しては「様」もしくは「先生」を使用してきた。誰に言われたわけでもないが、「殿」には少し見下したようなニュアンスが含まれているように感じたからだ。ただし、社内では社長に対してさえも、「殿」で通していたので、見下したニュアンスがあるというのは間違いかもしれない。「殿」には身内のニュアンスがあるということだろうか。「殿と家臣」それはまさに身内の関係であると言える。 役所と市民は、身内同士なのか、それとも業者と客の関係なのか、殿と様の文字一つの違いであるが、昨今の政治の一つの変化をあらわしているように思える。
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