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感度

 4月から全社部門に変わったせいで、とんでもない対策会議に参加させられるハメになってしまった。

私が元々所属していた事業部もいろいろな問題が起こったし今も起こっているが、客先から徹底的に叱られ、もうお前のところの製品は買わんと何度も言われ、出入り禁止になり、1億円以上の商品を新品にごっそり交換することもしばしばある。それでも新聞に載ったことはない。


 ある部長は担当営業マンの「感度」の問題だと力説する。営業が客先の担当者の「優しさと友好的な対応」に安心してしまい、客先のほんとの深刻な事情を把握できずに、そのまま放置した結果だということだ。

確かに、元我が部門は、その面での感度は良好だったような気がする。というのは、先生はたいてい気むずかしく、発せられる言葉は奥ゆかしいと決まっているからだ。それに複雑な人脈関係。商品の購入にあたっては、実際に使用される担当の先生には商品選定の権限はほとんどなく、その上の上の大きな力関係によって、意志決定が成される。組織外の「世界的大権威者」の意向が大きく反映する場合も少なくない。営業マンはそれらを見抜かなければならない。

だから、営業マンは可能な限り、担当の先生とともに、その上の上のトップ実力者、「世界的大権威者」達にアタックし、その大きな支持を得る事を目的として、日頃の営業活動を展開している。これは元我が部門では、常識中の常識だ。「世界的大権威者」の支持があれば、叱られることはあっても、それ以上はない。

支持がころころ変わることも少ない。

 しかし、当該部門では、そうではないらしい。当該部門の事情は私にはよくわからないが、個人的には元所属していた全社の中では成績の悪いお荷物部門の「良さとすばらしさ」を発見できて、嬉しく感じた。今の私の立場で、元の所属のちがいを持ち出して云々して喜んでいるのは、ふとどきしごくであるが、そうでもしないとやってられない。偽らない今の私の気持ちである。


****確かに受け取りました二つの「バトン」必ずお返しします。たいへん遅れてすみません。

母の言葉

母の言葉


 私は、独身時代に恋人と遠距離な関係にあった。当時私は、恋人との関係に揺るぎない自信を持っていた訳ではない。それでも、恋人以外の女性は眼に入らなかったし恋人が別の男と親密な交際をすることなど全く心配していなかった。たいへんのんきで純真な青年であった。


 私は二ヶ月に一回くらい、遠くの町まで泊まりがけで、恋人に逢いに行った。私の行動の異変に気づいた母が私に言った。


「女は不安なもの。もしおまえがそのつもりなら早く正式に婚約しなさい。」


 とりあえず笑ってごまかして、その場を逃れた。母には口では勝てない。はたして母の言うとおり、その恋人が私との恋愛の行く末に、不安を抱いていたかどうかは不明ではあるが、私は「女は不安なもの」という母の言葉を金言として受け止めた。それまで母からたびたび女とはこういうものだという話を聞かされていたわけではない。また、普段、母が「~しなさい。」と私に命じることに、たいていの場合素直に従う気にはなれなかった。しかし、そのときばかりは違っていた。恋人が今どういう気持ちでいるかということは私の最大の関心事であった。私は女性の気持ちや考え方がどういうものであるのかよく知らないことを自認していたので、同じ女性である母の言うことを聞こうと思った。それは私が全く気にとめていなかった部分を鋭く指摘する言葉であった。


 私は母の言うとおりにした。会社を休みにしてすぐに恋人にプロポーズしに行った。意外にも恋人はそれをある程度予測していた様子だった。自分の両親が反対ではないことを確かめた後、恋人宅を訪問して親にも結婚の同意を得ることができた。普段は母の言うことにほとんど耳を貸さずに、何事にもマイペースな私が、母の言うことを聞いて、迅速に行動した数少ないできごとであった。恋人とその親の行動も私と変わらないくらい迅速であった。早急すぎるという対応は一切なかった。私がそうするのが至極当然のような、期待通りの行動であったような印象を強く受けた。これらは母の言葉の正しさの証明であると思った。
当時、私はすでに勤めていたが、恋人はまだ学生生活を続けていたので、もし母の言葉がなかったら、遠慮深い性格の私は、あと何年かはプロポーズしなかったはずだ。遠慮が遠慮を生み、思い違いがまた別の思い違いを生んで、互いの心がすれ違うおそれは十分にあった。母の言葉のお陰で、私は無事に妻をめとることができた。母は74歳の若さで世を去った。来月には七回忌を迎える。


 職場の先輩が後輩に対して、サラリーマンとしてあるいは技術者として職場の内外でどのように振る舞うべきかというような、いわば人の生き方に関わることについて意見をする場面を見かけることがある。他人に対して生き方を説くことは、少し傲慢すぎるのではないかと私は思っている。同様にして、自分の子に対して、親が望ましいとする生き方を説く場合があると思うが、強く反発する子が多いのではないだろうか。特に母と息子、父と娘の関係において、その傾向は顕著である。
 

 もし、後輩や自分の子が自分の望むような人間に成長してくれることを期待するのなら、生き方を説くのではなく、その基になる物事の真実や道理、善悪を示したほうが受け入れられやすいと思う。物事の真実や道理は、それぞれの人の生き方とは無関係に普遍的なものである。また、人が人である限り根本的な善悪の基準はたやすくは変化しないと考えられるからだ。それらは後輩や我が子が自分の生き方を自分で決めるための貴重な判断材料になるはずだ。

すべての働く者の賃金は連動している

 他の企業に勤めている人が高給を取っていると、正直なところ、それをうらやましく思うだけでなく、ねたましく感じることがある。

特に、公務員の給料のばあいは、私達が納めた税金で支払われていることを考えると、なおさらのことだ。

「けしからん」と感じる人が多くいると思う。


しかし、それは間違いである。高賃金な企業があるということは、自分の給料が上がる可能性がある。逆に、低賃金の人がいると自分の給料も下がる可能性がある。


同じような仕事をしているにもかかわらず、企業によって大きな賃金格差が存在した場合、他企業に比べて賃金が低すぎる企業では、不平不満を持つ人が増える。働く意欲をそぐ。賃上げを求められる。新人の採用にも支障が出る。

賃金が低い方が企業の利益にはプラスであるが、賃金に対する不満はマイナスになりかねない。


経営者としての解決策はいくつかある。

ひとつの解決策としては、他企業と同じ程度の賃金を支払うことである。利益を圧迫するが背に腹は替えられない。

もう一つの解決策としては、その高賃金の企業にすみませんがとお願いして、賃金を下げて頂くことである。

賃金格差がなくなり、不平不満も消える。賃上げ要求の根拠をつぶすことができる。

これは、賃金は企業毎に決まる要素があるが、働く者の賃金は、連動しているということをあらわしている。

企業も役所も同じことだ。そこで仕事をして賃金をもらい生計を立てるという立場は全く同じだ。企業で働く者と公務員の利害は共通であり、対立しない。


公務員の給料は決して高くはない。

しかし、もし仮に、公務員の給料が高かったと感じたとしても、それをケシカラン、下げるべきだなどと言うのは、自分の給料を下げてくださいと言っているのと同じことである。たとえ、公務員の給料が下がってもそこで余ったお金は、現状では、働く者には回ってこない。政府は現に、公務員を減らして、公務員を含む働く者への増税をねらっている。


プロ野球の選手の年俸を考えてもらうとイメージしやすい。巨人は高過ぎる、ケシカランとは、古田選手会長はけっして言わない。


働く者が、働く者の賃金を高すぎると批判することは、天に向かって唾を吐くことであると思う。

働く者なら、よそに比べてうちの賃金は低すぎる。賃金あげよと要求するのが道理である。


働く者が公務員の賃金が高いから下げるべきだという意見に同調するべきでない。

その策動のほんとのねらいを見抜くべきだ。

湯飲み

 昨日、近くの大型電気店で、湯飲みをもらいました。

容量が100mlくらいの小さな湯飲みで、二個セットになっていました。

相田みつをさんのことばが書いてありました。


ひとつめの湯飲みには 「一生勉強 一生青春」

ふたつめには       「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」


ひとつめのことばを気に入ったので、蔵に片づけないで、使うことにしました。

ふたつめのことばは、少々観念論的すぎると感じました。しあわせとは思えない状況は、世の中にはなんぼでもあると思いました。


さっそく、熱湯と洗剤で湯飲みを洗ってから、特上かりがね茶を愛用のポット使って入れました。

                 ゆのみ


自室で勉学中の妻に、「粗茶ですが一服いかがですか。」と言ってサービスしてきました。

旅行バトン

1.今まで、最高に良かった国内旅行先

 →東京、葛飾 柴又  私の東京を見る目が変わった。

  自分の住んでいる町(元東海道五十三次の宿場 町)と同じだと思った。

  たいへん親しみを感じた。柴又は空襲を受けていないからだと聞いた。 戦争はしてはいけない。


2.今まで、最高に良かった海外旅行 


 →外国の忘れられない思い出は、語り尽くせません。

  オーストリア(Oesterreich)の湖がいくつかある地域の小さな町。名前は全部忘れました。

  写真を見てください。きれいでしょう。 

  

                    オーストリアのとある村の風景


3.これから行ってみたい国内旅行先 


 →日光東照宮、中学の修学旅行で行った時、たいへんきれいだったからもう一度見てみたい。  

  中禅寺湖には行かないで、そのもっと奥のなんとか言うところ。  


 「女人高野」の別名を持つ、奈良県の室生寺。一度行った。小さな五重塔。立派な仏像。

 心が洗われるところ。何度も行きたくなるところだ。 


4.これから行ってみたい海外旅行 


 →ヨーロッパの特に旧東側諸国の小さな村々を車で巡りたい。

 mit meiner Frauen  


5.次に渡す5人は? →どなたでも自由に回してください。

ささいなささいなちょっとだけ恩返しができた日

 ウチの嫁さんは、仕事を持っている。もう勤続うん十うん年のベテランだ。

結婚したのは彼女が就職したその年の年末のことだった。そしてすぐに妊娠した。

つわりは重かった。通勤の満員電車の中で、何度も気分が悪くなってその都度途中下車して、ホームのベンチに座っていたらしい。月数が増えると、お腹のふくらみを見て席をゆずってくれる人がいた。たいへん助かると話していたのを覚えている。彼女は小柄なので、ふくらみが平均以上に目立った。そうして3人の子どもを産んだ。毎回、切迫流産で、一週間ほど入院して産前休暇が始まるまで仕事をしていた。


 昨日、帰りの電車で通路側の席に座って本を読もうとしていたら、真横の通路に小柄な女の人が立った。お腹の前で鞄を持っているので、わかりにくかったが、微妙にお腹がふくれているような気がした。顔をちらっと見ると少し生彩がなかった。髪もしばらく美容院に行っていないような、昨日シャンプーしなかったような、そんな感じだった。マタニティー服ではなかったが、妊婦さんだと思った。うん十うん年前の妻の姿を思い出した。小さな声で「座りますか」と声をかけた。彼女はビックリしたような不安な表情を最初に見せたが、

「すみません、ありがとうございます」と言って席に座った。真横に立っていると心苦しいかもしれないと思ったので、私は一人分離れた場所に立った。鞄を網棚にあげて、本を読んだ。

それから25分ほどして私の降りる駅に電車が着いた。彼女は私に無言で会釈してくれた。こちらも同じようにして電車を降りた。

うれしかった。そのことは妻には話していない。

なぜか、ひみつにしておきたいと思った。




 



なんのために生きるのか

たいへん大きなテーマなので、ここにイッキにその答えを書き切ることはできません。

でも言えることは、

・自分が幸せになるために生きている。これは言えます。

 人はひとりだけで生きてはいけない。

 まずは、家族の幸せ。

 家族だけで生きていくことはできない。

 親戚、同僚、知人、友人たち周りの人々の幸せ。

 周りの人々だけで生きていくことはできない。

 それ以外の人々の幸せ。これも大事だ。

 みんなが安心して暮らせる平和な社会。

 私が生きている間に実現はできないと思うが、その日が一年でも早く来るために、生きたい。


憲法改定、国民投票の法整備で自公民一致

 衆院憲法調査委員会  「憲法改訂」に必要な国民投票法案などを審議する衆院憲法調査特別委員会は2005年10月6日午前、初めての審議を行った。

自民、公明、民主の3党も法整備に基本的に賛同する考えを明らかにした。

自民党・公明党は来年の通常国会で同法案の成立を目指している。


 自民、公明、民主の3党のねらいは、憲法九条を変えて、アメリカと一緒に海外で戦争のできる国に変えてしまうことにある。


 人のいのちを危うくして幸せを破壊するもの。

自分にはあまり関係ないことだろう、まさか自分が、自分の家族、身内のいのちが危険にさらされることはないだろう。となりのおっさんも、かわいいあの娘もきっと大丈夫だろう。

それに、兆候というものがあるはずだから、行動を起こすのはそれからでも遅くはない。


 たばこ

喫煙者はそういうふうに考えて、たばこを吸い続けるわけです。たばこの煙が影響を与えるのは、たばこを吸う本人とその周囲の人範囲が限定されています。本人が決心さえすれば、吸わないようにできる。


 戦争

そういう風に考えて、戦争につながる危険な動きをそのままにする。しかし、国と国との戦争が始まれば、戦争に直接関わらない人も、戦争したくない人もみんなの暮らしを破壊する。みんなのいのちが危うくなる。自分だけの意志では、危険を回避することが全くできない。戦争反対の声は、かき消される。戦争反対が、多数意見にならないように、法律、マスコミ、ありとあらゆる手段を使って、平和を願う国民の声を封じ込める。

 行動を起こすのは、それからでは遅いのだ。それが戦争。それが、武力で国を守るということだ。


 このブログを読んで下さるみなさま、特に平和を愛する女性の皆様に、訴えます。

小泉首相の靖国参拝 憲法違反 判決出る

小泉首相の靖国参拝は憲法違反、判決出る

小泉首相の靖国神社参拝で、第二次大戦で日本軍の兵隊となって戦死した台湾の少数民族の遺族と、日本人ら188人が、小泉首相と国および靖国神社に対して損害賠償を求めた民事裁判で、大阪高等裁判所(大谷正治裁判長)は、2005年9月30日に、高等裁判所としてははじめての違憲の判断を下した。
小泉首相の靖国神社参拝は、信教の自由と国の宗教活動の禁止を定めた憲法の宗教的活動に当たる憲法違反の行為であるという判断をした。

 高裁としては初めての明確な違憲判決で、画期的であるが、過去に靖国神社が果たしてきた役割と、小泉首相の参拝行為の目的を、憲法の条文に照らし合わせれば、違憲判断は当然のものである。

 小泉首相は、正月には神社へ初詣に行く。伊勢神宮にも参拝する。にもかかわらず靖国神社に参拝した場合ほど騒がれない。公務が多忙で、正月の初詣を簡単に済ます年もあったと、自分で言っていた。ではなぜ、小泉首相が靖国神社に参拝すると、憲法違反になるのか、国の内外から強い批判を受けるのか批判されるのか、それでもなお、小泉首相は靖国神社に参拝し続けようとしているのかについて、私の考えを整理していきたいと思う。

はじめに、日本国憲法20条の条文をあげておく。

第二十条【信教の自由、国の宗教活動の禁止】
1  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 国民の信教の自由は何によって侵害されるのだろうか。宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを、国民に強制するのは誰なのか。その答えは、憲法に書いてある。あの麻原彰晃こと 本名、松本智津夫のような宗教を利用した大悪人によって、国民の信教の自由が侵害されるのではない。
それは、国なのである。
 戦前の大日本帝国憲法下においては、すべての日本国民は神社礼拝を強制された。神社の頂点には天皇の祖先を奉る伊勢神宮、そして現人神としての天皇がいた。天皇中心の国家体制を維持するために国民を統率する精神的基盤として、神道が国から特権を受け、国は「日本は天皇が統治する神国」であるという、宗教教育を行った。中でも、靖国神社は、さらに特別に重要な役割を担っていた。
結果として、日本は中国をはじめとしてアジア各国を侵略し侵攻し、3000万人を超えるアジアの人々と多くの日本人の尊いいのちが奪われた。
その反省の上に立ってできた憲法の条文である。

 それでは、靖国神社の特別に重要な役割とは何なのだろうか。
戦死した兵隊を追悼するための神社なのか。戦死者の生前をしのび、その死をいたみ悲しむ所なのだろうか。
私の答えはNoである。靖国神社は戦死者の死をいたみ悲しむところではない。靖国神社は戦死者を追悼するための神社ではない。

国民が、戦争で死んだ家族の死を悲しんでばかりいたのでは、国民は家族を戦争には行かせたくないと強く思うであろう。それでは国は自由に戦争ができない。国民がいのちを差し出してくれなければ戦争はできない。
そのためには、戦争で子どもを亡くした親、愛する夫を亡くした妻、父をなくした子どもたち家族みんなの計り知れない深い悲しみと嘆きを、「喜び」に変える必要がある。若くして人生に終止符を打たざるを得なかった本人の無念を「名誉」に変える必要がある。

「戦死者を神として祀る」という事を言い、そこにうやうやしく、当時は天皇が、今は首相と閣僚が毎年参拝することによって、国民は戦死することが「喜び」であり「名誉」であると思わされようになる。死んだ人は何を持ってしても帰らない。なくなったいのちは、元には戻らない。その遺族のどうしようもなさにつけ込んで、「喜び」と「名誉」を与える役割、それが靖国神社であり、首相が参拝する目的であると私は思う。



みなさんは、家族を亡くす悲しみを「喜び」に変え、無念を「名誉」に変えるマインドコントロールを受けたいですか、拒否しますか、賛成ですか、反対ですか。
戦前の軍国青年、軍国少年の話を聞いたことがあるでしょう。「お国のために自分の命を捧げることは喜びであって名誉なことだ」みなさんは、ソンナバカなはなしがあるもんかと、信じられない思いをしたと思います。
国が、宗教を利用して、国民をマインドコントロールすると、そんなふうに国民はなってしまうのです。
小泉首相の、靖国神社参拝、今、まさにそれが行われようとしているのです。
もし、あなたが少しでも、国のために戦って戦死することは名誉なことだ、戦死した人は英雄だと考えているとしたら、マインドコントロールが少し効きかかっていると思いますよ。

アジアと世界の人々から信頼される国-日本のために

 かつての日本の国が行った侵略戦争について、中国などの被害国へ謝罪をすることについて、「自虐的だ」と言う人がいるが、私はそうは考えない。


 「自虐」とは、辞書には「自分で自分の体や心をいじめ苦しめること」とある。

誤りは誤りとして認めて謝罪するのが、人間として当然のおこないだ。

謝ったから自分の人格に傷が付くわけではない。謝らないほうが人間性を疑われる。

非を認めること、謝ることは自分をいじめ苦しめることではない。むしろ自分を高めることである。

自分の非を認めて相手に謝ることには、一定の苦痛を伴う。

しかし、それは一時的なもので、謝ることによって、あらたな関係を築く道が開ける。

過去の過ちを徹底批判する事によって、なくした信頼を取り戻せる。

  謝らなければ相手はいつまでも非を追及し続けるので、苦痛は継続する。自分で自分を虐待することになる。非を認めないで謝らないことこそ、まさに「自虐的行為」だ。


にもかかわらず、なぜ彼らは「自虐的」と言うのだろうか。

「自虐的だ」と言う人の多くは、非を認めていない。彼らの多くは、3千万人を超えるアジアと日本の人々から、わずかな幸せまでも奪ってしまったあの戦争と、その指導者、日本のファシズムの首謀者たちを、正しかったと言う。戦前日本が戦争を起こしたのは自国の領土を守るためであったと言う。彼らは 中国や朝鮮はけしからん国だと蔑視する。 


 彼らに最も特徴的なのは、戦前の天皇中心の排他的軍国主義思想を、自分の思想として今も継承しているということである。自分と思想を同じくする人間が、自分と同じ思想に基づいて成した行為だから、非を認めにくいのだろう。謝ることは自分の思想を否定することになるのだろう。彼らが言う「自虐」の「自」は彼ら自らの思想とその思想の実践のことを指すのである。


 しかし、私は違う。天皇中心の排他的軍国主義思想の継承者ではない。天皇中心の排他的軍国主義思想によって、幸せを奪われる日本の一般庶民の一員である。だからかつての日本の国が行った侵略戦争の非を認めて、中国、朝鮮などの被害を受けたアジア諸国へ謝罪をすることは、「自虐」にはあたらない。


 ところで、あなたは、戦前の思想の継承者ですか。そうでなかったら、「自虐」ということばに気を留める必要はないのではないでしょうか。


 国民はだまされないぞ!!!

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